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キッカケ・シリーズ

2008年5月 4日 (日)

キッカケは薩摩(鹿児島)? Part II (3) 篤姫 江戸城興し入れのルート

本ページは姉妹ブログ「アジア! 華流! 台流! C-POP!」からの引用です(http://asien.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/part_ii2_e214.html

本日の『篤姫』、いよいよ江戸城に興し入れをしましたね。

番組の最後の「篤姫紀行」ではきっと興し入れのルートをやるものだと思っていたのですが、ハリスにちなんだ下田の紹介で終わってしまったので、ちょっとガッカリでした。

なので、インターネットで検索をしたところ、篤姫の興し入れルートを丁寧に説明してあるサイトがありましたので、ご紹介します。

http://azabu777.hp.infoseek.co.jp/deep2/mukasi10.html#165

”1856年(安政3年)11月11日正午に常盤松(薩摩藩邸)を出発した行列は、現在の東京女学館脇から日赤横を抜け堀田坂を下って笄川を渡り麻布に入る。そして鉄砲坂・北条坂の2段坂を登って桜田通りを中国大使館方面に直進、麻布消防署からヘアーサロンタナカ前を通り、材木町を右折し、芋洗い坂・六本木を通り、飯倉片町、飯倉と麻布を抜けて新橋、薩摩藩中屋敷(装束屋敷とも言われる)がある日比谷を通過し、さらに進んで大奥の通用門である平川門から江戸城内に入った。”

このサイトは素晴らしく、グーグル・マップで興し入れのルートとめぼしい場所の現在の写真を掲載してくれています。

http://www.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=107021032418468200489.000449c5401f665c02165&ll=35.675566,139.731331&spn=0.039184,0.085144&z=13

旅気分でルートを確認できて面白いです。

2008年4月29日 (火)

キッカケは薩摩(鹿児島)? Part II (2)

本ページは姉妹ブログ「アジア! 華流! 台流! C-POP!」からの引用です(http://asien.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/part_ii2_56d6.html)。

本日も『篤姫』ネタ。

番組最後の予告編は、いよいよ来週はお輿入りか?というのを匂わせていましたね。それから、本日の本編の最後は大地震で薩摩藩の江戸芝本邸が崩落、一族は斉彬が用意していた渋谷屋敷に移ったのであった、という解説セリフがありました。

「キッカケは薩摩(鹿児島)? Part II」でふれたように、篤姫はこの渋谷屋敷から興し入れをしたようです(http://asien.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/part_ii_83b1.html)。「篤姫ゆかりの地」では、その渋谷屋敷跡が映像で紹介されていましたね。

さて、その渋谷屋敷からはどういったルートで江戸城入りしたのか?246?六本木通り?来週の『篤姫』で紹介されることでしょう。謎が解けます。

キッカケは薩摩(鹿児島)? Part IV

本ページは姉妹ブログ「アジア! 華流! 台流! C-POP!」からの引用です(http://asien.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/part_iv_34f7.html)。

調べれば調べるほど面白い西郷隆盛との時空を超えたランデブー。

本日のネタは、静岡県清水市(現在は静岡市清水)村松にある「鉄舟寺」について。

清水市村松は、自分が小学校3年生まで育った土地です。そして、「鉄舟寺」は子供の頃によく遊んだ場所。お寺に上がるまでの階段がキツイんですけど、子供の時はヘッチャラでした。

子供の頃は、「鉄舟寺」にどんな由来があるのか?なんてまったく知らずに遊んでいましたが、『篤姫』に感化されて、江戸末期~明治時代に関する本を読むうちに、江戸無血開城の話し合いをするために静岡の地で「山岡鉄舟」が西郷隆盛と会談、というクダリに到り、「もしや!」と思って調べてみると、その通りでした。あの「鉄舟寺」の鉄舟は、「山岡鉄舟」が由来だったんです。

「鉄舟寺」は、久能山の一部に鎮座しているのですが、久能山には徳川家の墓地があります。駿河の地、「日本平」のところです(徳川家の正式な墓地はあの有名な日光に遷されていますが)。「鉄舟寺」はもともと「久能寺」と呼ばれ、約1300年前に推古天皇によって建立された由緒あるお寺らしいのですが、明治維新の混乱で廃寺になってしまったのを「山岡鉄舟」が惜しんで再興に努力したと。その際、「清水の次郎長」の協力を得たようですね(清水の次郎長も幼い頃から知らず知らずに親しんでいる地元のヒーローです)。詳しくは、こちらのサイトに書かれています⇒http://www.asahi-net.or.jp/~kw2y-uesg/jiin/tesyuuji/tesyuuji.htm

「山岡鉄舟」そのものについてはこちら⇒http://www.asahi-net.or.jp/~kw2y-uesg/jiin/tesyuuji/yamaoka/yamaoka.htm

西郷隆盛と山岡鉄舟が会談を行ったのは、現在の静岡県静岡市伝馬町の松崎方。

JR静岡駅と駿府公園の間に位置しています。静鉄の静岡駅の近くです。http://map.mapple.net/_mdspot_sc40000_sidG02201122101.htm(地図)

http://www.satv.co.jp/program/tobikiri/tokaido/episode6.htm(記事:静岡朝日テレビHP「とびっきり!しずおか 遠之助珍道中」第24回のところ)

この場所って、小学校の時に、静岡に遊びに行く時に通っていた場所ですし、静岡に帰省する時にも通っている場所です。

不思議すぎるランデブーです。西郷さんもあの静岡から見える美しい富士山の姿を見ていていたんですね。日本一の富士を見ながら日本の将来を夢見たことでしょう。

そういえば、『篤姫』でも、篤姫が江戸に向かう途中で駿河を通過した折、籠から降りて富士山に向かって「薩摩よりまかりこしました篤姫でございます」というシーンがありました。篤姫も西郷隆盛も、薩摩では桜島を拝み、駿河・江戸では富士山を拝み、江戸末期の激動の日本にあって、その行く末に思いを馳せたことでしょう。

キッカケは薩摩(鹿児島)? Part III

本ページは姉妹ブログ「アジア! 華流! 台流! C-POP!」からの引用です(http://asien.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/part_iii_d141.html)。

目黒不動尊。

本日(日付が変わってしまったので昨日になりますが)の『篤姫』の本編終了後に紹介されていた「目黒不動尊」。なんと、西郷隆盛ゆかりの地だったそうで!島津斉彬が長期で病床に伏してしまった折、西郷隆盛が斉彬の回復の祈願をした場所として紹介されていました。

目黒不動尊は、弊社アジア・リパブリック・エンターテインメント社から自転車で15分ぐらいのところにあります。桜で有名な目黒の「かむろ坂」を通ってちょっとのところです。1度だけ訪れたことがあります。テレビに映っていたあの「独鈷の滝」で西郷さんはご祈願されたのかな?なんて思いを馳せてしまいました。またまた何とも不思議なランデブーです。

キッカケは薩摩(鹿児島)? Part II

本ページは姉妹ブログ「アジア! 華流! 台流! C-POP!」からの引用です(http://asien.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/part_ii_83b1.html)。

本日の『篤姫』も見応えがありました。”芝”の薩摩藩邸の島津斉彬の元で徳川家への興しいれの準備をしている篤姫が、”高輪”の薩摩藩鄭の島津斉興(斉彬の父上)のところに挨拶に赴くというクダリです。西郷隆盛が護衛としてお供しました。

またまた、自分と西郷隆盛との時空を超えたランデブーの話になりますが、この”芝”の薩摩藩邸は、今の港区三田の戸板女子短大、セレスティンホテル、NEC本社ビルのあたりにあったそうです。即ちこれ、母校の慶應義塾大学 三田校舎のご近所です。

ネットで検索してみたところ、373南日本新聞news.com(ミナミニュース.コムhttp://373news.com/_bunka/jikokushi/52.php)というサイトに「江戸の薩摩藩邸」(歴史作家 桐野作人 著)を見つけました。

薩摩藩の屋敷は江戸に6~7箇所あったようですが、下記にミナミニュース.コムの記事から抜粋します。屋敷があったそれぞれの場所に自分は縁があります。

 (1)桜田屋敷(旧上屋敷)
 千代田区内幸(うちさいわい)町1丁目、2702坪⇒日比谷公園近くのNTT日比谷ビルのあたりです。即ちこれ、前職のワーナー・オフィスのすぐ近くです。

 (2)芝本邸(上屋敷)
 港区芝3丁目、2万1785坪⇒戸板女子短大、セレスティン・ホテル、NEC本社ビルのあたり。即ちこれ、母校の慶應義塾大学 三田校舎のご近所です。セレスティン・ホテル(http://www.celestinehotel.com/jp/access/index.html)には泊まったこともあります。穴場的ないいホテルです。

 (3)高輪(たかなわ)屋敷(中屋敷)
 港区高輪3丁目、1万4605坪⇒JR品川駅前、ホテル・パシフィック・メリディアン東京のある場所。即ちこれ、以前住んでいた高輪のマンションから自転車で10分ぐらいのところです。ホテル・パシフィック・メリディアン東京は、海外から帰国する時に成田から乗るリムジン・バスで自分が下車する場所です。バスを下車した時に「あー、(日本に)帰って来たな」と安堵感につつまれるのは、ここが縁(ゆかり)の地だからなのかも、ナンテ?!

 (4)田町屋敷(町屋敷)
 港区芝5丁目、6561坪⇒JR田町駅西口付近、第1田町ビルのところです。江戸無血開城を決めた有名な西郷隆盛と勝海舟の会談が行われた場所です。即ちこれ、母校の慶應義塾大学三田校舎に通っていた時の通学経路です。

 (5)白金屋敷(抱[かかえ]屋敷)
 港区白金台1丁目、7937坪⇒八芳園、明治学院大学のあたりです。即ちこれ、以前住んでいた白金のマンションから自転車で10分ぐらいのところです。八芳園は、my favorite placeです。日本庭園が美しく、2FのThrush Cafe(http://www.happo-en.com/restaurant/thrushcafe/index.html)から見える景色は絶景です。両親を連れて行ってあげたこともあります。

 (6)渋谷屋敷(下屋敷)
 渋谷区東4丁目、1万8000余坪⇒国学院大学のあたりです。篤姫はこの屋敷から江戸城に興し入れをしたようですね。残念ながらこの土地とはあまりご縁がないです。バスで近くを通ったぐらいです。ただ、もし篤姫の江戸城興し入れの行列が六本木通りをと通って行ったとすれば、そこは何度も通っています。

その他として、島津公爵邸もご紹介しておきますと、これは現在の清泉女子大本館(東京都品川区東五反田三丁目)ですhttp://www.age.jp/~docile/kyu_shimazuyei.htm。清泉は、いとこが中学・高校時代に通っていた学校です。

なんだか不思議な接点です。

キッカケは薩摩(鹿児島)?

本ページは姉妹ブログ「アジア! 華流! 台流! C-POP!」からの引用です(http://asien.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_d206.html)。

NHKで始まった大河ドラマ『篤姫』。

幕末に薩摩(鹿児島)で生まれ育った今泉島津家のお姫様「篤姫」が、後に江戸にわたって徳川将軍家(第13代)に嫁ぎ。。。というストーリーライン。第1話のエンディングでは「この姫が日本の将来を救うことになろうとは誰も。。。」という物語の展開を”予告”していました。

実は、第1回目の本放送の時には、最初は流し見で、ところどころ観ている程度だったのですが、ドラマの途中から、自分の”DNA”が騒ぎ出し、どっぷりハマってしまい、後半戦は真剣に鑑賞していました。残念ながら前半部分は観逃してしまっていた場面も多かったので、再放送でもう一度”しっかりと”鑑賞しました。

やっぱり素晴らしい出来でした。
大河ドラマに真剣になるなんて実に久しぶりです。

舞台は薩摩(鹿児島)。
実は、父の出身が鹿児島なんです。小さいころから島津家の名前はよく聞いていましたし、子供の時に何回か鹿児島に行ったことがあり、鶴丸城、城山公園、吉野公園、磯庭園、桜島、指宿、開聞岳、鹿児島市内の路面電車や山形屋デパートなどなど、幼少の頃のことなのに、意外とクリアに覚えています。
それで、DNAが騒いだんでしょうね~。

でも、それだけではありません!ドラマの端々に出てくるキーワードにビンビン来ました。琉球との密荷、清国との密荷、薩摩が外国との接点、フランス船、寺子屋での孔子の教え、西郷隆盛。。。

日本が鎖国政策を取っていたこの時代、中央の江戸から遥か南西に位置する薩摩はその物理的な距離ゆえ、幕府の目も細かい部分まで届かないところもあったようで、中国や琉球を含む東アジア圏の1中継ポイントとして諸外国と接して世界の最先端の物品や情報に接する機会も多かったんでしょうね。だからこそ、後の西郷隆盛のような人物を生むことになったのでしょう。実は、私の名前には西郷さんの下の名前の漢字一字が使われています。父方の思いなのでしょう。

数年前、前職の時の社員旅行で「屋久島」に行きましたが、その時の中継ポイントが鹿児島でした。羽田から鹿児島まで飛行機で、その後、鹿児島市内の船乗り場から「屋久島」行きのホバークラフトに乗り込みました。結構揺れました!徹夜明けにそのまま社員旅行に行ったので頭がクラクラしたのを覚えています。

「屋久島」では自分のルーツを発見?!
自分の名字(父方の性)って割りと日本では少ないんですけど、ナント、「屋久島」にはその名の土地・住所があったんです!
どうやら自分のDNAは南西方面から来たんでしょうか?ひょっとして、それで台湾に惹かれるでしょうか?(笑)でも、意外と真剣だったりします。初めて台湾に行った時、やはりDNAが騒ぎました。きっとそうに違いない、ナンテ(笑)

『篤姫』の本編終了後の鹿児島観光案内で、喜入肝付家ゆかりの地として「喜入小学校」が紹介されていました。

この小学校は、私の父親の出身校でして、小さい頃に鹿児島旅行に行った際に連れて来られた場所でもあります。

私の父は昭和9年生まれで今年で74歳になるのですが、健康でピンピンしていおり、パソコン・デジカメ・インターネットなんかを平気でこなします。驚きです。元々、造船関係の技術者だったのでメカに強く、パソコンも私よりも先に購入して使っていました。相当前の話ですが、私がパソコン初心者だったころ、自分は父に教えてもらっちゃったりしてました(恥!)。

そんな父から、先週、『篤姫』で喜入小学校が紹介されていたよ!と言って、写真付きのメールが届きました。74歳にしてパソコンを駆使してスゴイなと思います(汗)。

そんな感じで、最近、自分的には、『篤姫』がキッカケで「幕末~明治時代」がマイ・ブームになっていて、関連書籍や幕末~明治の歴史本を読み漁ったりしています。

そんな中、自分の下の名前の漢字1字の由来となっている「西郷さん」こと「西郷隆盛」との意外なランデブーについて発見しました。

倒幕のために江戸に向かった西郷隆盛は、「駿河」の地で幕府側の使者、山岡鉄太郎(鉄舟)と会談。これは、後の勝海舟との江戸城引渡しの下準備会談と位置づけられているそうですが、「駿河」は今の静岡、即ち、自分の生まれ故郷です。

西郷隆盛は、その後、さらに東に歩を進め、江戸高輪の薩摩藩邸で勝海舟と会談。討幕軍による総攻撃の中止、江戸城の無血開城が話し合われます。この話し合いがされた薩摩藩邸は、品川駅前のホテル・パシフィック・メリディアンにあったそうですが、これは以前自分が住んでいたマンションから自転車で10分ぐらいのところです。

明治維新政府が成立し、薩長出身の人間が明治政府の中心に(藩閥政治)。西郷隆盛も勿論そのなかの一人でした。

横浜が海外への窓口として急激に発展して行きます。

明治4年に岩倉具視一行が欧米視察のために横浜を出発しますが、西郷隆盛は留守番組として、横浜の地で一行を見送ったそうです。

また、日本初の鉄道が新橋~横浜に敷かれますが、そのお披露目式典で、西郷隆盛は新橋から横浜行きの列車に乗車。横浜は私が中学校~社会人1年目を過ごした土地。新橋は職場です。

西郷隆盛は、その後の西南戦争で薩摩の地にて亡くなりますが、弟の従道は明治政府の要人として残ります(第一次伊藤博文内閣では海軍大臣)。従道の邸宅は、目黒区青葉台の西郷山公園にあったそうです。代官山駅から歩いて15分の旧山手通り沿いです。ここは大学時代~バブルのころ、典型的デート・コースの一部。ははは。。。

日本史の勉強は中学の時は大好きだったんですが、高校になると専ら世界史の方に目が向いてしまっていて、日本の幕末・近代史って割と弱かったんですね~。で、こうやって、大河ドラマをキッカケにいろいろと調べてみると、父の出身地=鹿児島(薩摩)と赤い糸的なつながりをしていたんだなぁ~と感心しちゃっています。「隆」の字を頂いたが故の因縁でしょうかね?益々興味が沸いて来ました。

上野公園の「西郷隆盛」像は、犬で有名ですが、自分も犬が好きです。静岡にいるころには柴犬を飼っていました。鹿児島から静岡の地に着いた西郷さんは、富士山と三保海岸の風景をどう感じただろうか?なんて思いを馳せています。

キッカケは、KARAOKE in 広州? グレムリンが結ぶ縁。

本ページは姉妹ブログ「アジア! 華流! 台流! C-POP!」からの引用です(http://asien.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/karaoke_in_00fe.html)。

今日は、自分がC-POP(1990年代の香港C-POPの方ではなく、2000年代の台湾C-POP)に興味を持つようになったキッカケを少々。

あれは、2002年の夏頃だったと思います。。。

2002年12月20日にワーナーから発売した「グレムリン DVD Limited BOX ― モホーク フィギュア付き ブリスターパック」という商品、ご存知の方いらっしゃるでしょうか?(おそらく、今の華流ファンの中にはいらっしゃらないと思いますが!笑)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%A0%E3%83%AA%E3%83%B3-Limited-%E3%83%A2%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%82%AF-%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%A2%E4%BB%98%E3%81%8D-%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%AF/dp/B00006LY1Y

実は私、この商品の開発・マーケティングを担当しておりました。
グレムリンに登場する「モホーク」というキャラクターの5cmぐらいのフィギュアをグレムリン1と2のDVDに付けてブリスター・パックにして限定で販売するという企画でした。

で、このフィギュアの製造は、日本のメーカーへの発注でしたが、このメーカーは中国の広州にある工場を使っていました。

原型の作成から、着色サンプルまではすべて日本でやりましたが、いざ大量生産(と言っても限定生産○千個ですけどね)に入るゾ!という段階で、工場視察の出張に行くことになりました。

それまで、中国といえば、個人旅行で香港に行ったことはありましたが、その先の広州には足を踏み入れたことがなく、また、ドロボー等の物騒な話もいろいろ聞いていたので少々ビビリながらの出張でした。ま、でも、香港までは一人旅でしたが、香港からは日本のメーカー担当の方が空港に迎えに来てくれてフル・アテンドしてくれたので安全な旅でしたけれどもね。

香港から広州の国境までは大型バスで1時間弱、そして中国への入国手続き(ナント40分近くかかりましたよ!当時、香港返還後すでに5年近くも経っていたのに、香港-広州間の入出国手続きはスムーズに行っていなかったんです!!!2006年に広州に行った時には解消されていましたが。。。)、その後ミニバンで主要幹線の中継地点まで1時間ぐらい、そこから更に迎いの乗用車でホテルまで30分ほど。ホテルに着いた時には夜。外は真っ暗になっていました。大変な奥地に連れて行かれたもんでした。。。しかも一泊二日の強行軍だし。。。それもこれも大事な商品のため、自分の大事な企画のため、というのがあったので意外と平気でしたけどね。

で、この道中で関心したのが、フィギュア・メーカーの担当者。大型バスやミニバンの中やホテルで、中国人の女性スタッフとカタコトの中国語で会話を楽しんでいるではありませんか!日本オフィスで出入りしているその担当者が中国語をしゃべるなんて予期していなかったので、ちょっとビックリしました。単なるフィギュア・オタクとしか思っていなかったので。。。聞いてみたら、独学でちょっと勉強したそうでして。今思い起こしてみると、発音は怪しかったようでしたが、そのチャレンジ精神は、後々自分の励みにもなりました。

さて、導入部分が長くなりましたが、その夜に連れて行ってもらった大型KARAOKE店。そこが、台湾C-POPとの出会いの場所です!

とあるテクノ系ダンス・ミュージック(中国語)がかかると、そこにいたスタッフが全員立ち上がって踊りながら歌い始めたのです。非常にノリの良い楽曲でした。その当時はC-POPにはさほど興味もなく、中国にもこんなテクノ系ダンス・ミュージックがあるんだなぁ~、と思ったに過ぎませんでしたが、メロディが特徴的だったので、なんとなく頭に残りました。気になった曲でしたが、歌手の名前も楽曲の名前も聞いてもわかりませんでしたが。。。

その後、その年の秋に例の初・台湾旅行に行ったわけですが、その時にこの謎が解けたのでした!

その台湾旅行に行った時、現地で知り合った台湾の友達数人に連れられて台湾のKTV(カラオケ店)に行ったんですね。そこで偶然にも!広州のKARAOKE店で聴いて気になっていた楽曲を台湾の友達が歌ったんです!

その時に名前を教えてもらいました・・・鄭秀文sammiの『眉飛色舞』

東京に帰ってからいろいろと調べてみました。元は韓国の楽曲だったのを中国語にして歌っていたんですね。しかも彼女は元々香港出身の人。

で、その後再び台湾に行った時に彼女のVCDを買いました。『眉飛色舞』を含む10曲を収録した『sammi鄭秀文,冠軍卡拉OK VCD』。彼女の最新ヒット曲満載のベスト版的なカラオケVCDでした。「カラオケVCD」と言っても、ちゃんと彼女の音声付き。中国語歌詞がカラオケのように表示されるんです。なので、中国語の勉強には打ってつけ、という感じでした。しかも、MV(ミュージック・ビデオ)のクォリティが非常に良い!1本の映画のような感じなんですね。そこで発見しました、台湾C-POPのレベルの高さを。で、中国語の楽習には持って来いの教材ではないか?と。自分が「ビートルズ」で英語を勉強した時のように。。。

というのがキッカケです。
いつものように長い長~いキッカケ話でした。(汗)あせあせ

それにしても、こうやってこのシリーズを書き続けてみると、自分でも発見です、意図する・しないに関わらず、自分は徐々に徐々に華流の世界に引き込まれて行っていたんだなぁ~、と。これが自分の運命、天命、「役割」?(『篤姫』ふうに。笑)

キッカケはコンプレックス?

本ページは姉妹ブログ「アジア! 華流! 台流! C-POP!」からの引用です(http://asien.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_9733.html)。

さて、本日は、中国語を勉強するようになったキッカケについて少々。
お話をする前に、ちょっと道がそれますが、自分って”勉強”するってコトバの響きは好きではないんですね。字面が”強いて勉める”ですから。イヤイヤやるって感じ・漢字ですよね。母校の慶応義塾大学で元NHKニュース・キャスターの宮崎緑さんが三田祭で講演をされた時にも、そんなことをおっしゃっていました。もう20年前ぐらいのことですが。

こと、外国語学習については、”楽しく学ぶ”楽習でないと、長続きしないと思っています。これ自論です。語学は毎日続けることが大事ですからね、長く付き合うようにしないと。嫌いな相手、楽しくもない恋人とは、長続きしないでしょ?

さて、中国語に関してですが、実は2003年になるまでは、自分とはまったく縁のない言語でした。

高校の時には、確かに「漢文」の授業は好きでした。あのレ点を追って読む日本語の響きは好きでした。そもそもレ点を追って読むという行為が、暗号を読み解くような感じで面白かったですしね。漢詩も好きでしたけど、歴史物語の漢文を読むのはもっと好きでした。壮大な中国!自分は世界史も好きで得意でした。

それから、浪人の時には代々木ゼミナールに通っていたんですけど、そこには漢文の名物講師で多久先生という方がいらっしゃいまして、非常に感銘を受けました。当時でもかなり高齢だったと思うのですが、ボディ・ランゲージを多用したパワフルな授業で、非常に情熱がありました。今でも当時の教科書を持っています。自分の受験校では、試験問題に漢文が出題されるわけではなかったのですが、教養として役に立ちました。

ただ、高校の授業にしろ、代ゼミの授業にしろ、所詮、日本語読みだったわけでして、中国語の原音で接していたわけではありません。受験が終わるとともに、漢文とも縁が切れてしまいました。大学での第2外国語はスペイン語でしたし。

実は、第2外国語の選択は、中国語とスペイン語の2大言語で迷っていたんですけれど、当時は数年後に「バルセロナ・オリンピック」が控えていたのと、小学校5年生の時にNHK教育でたまたま見た「ガウディ建築」に影響されて、という理由でしたかね、表向きの理由としては。でも、本当は、スペイン語は、発音が簡単だから。日本語の「あ・い・う・え・お」と基本的に同じなんです。一方、漢字だらけの中国語は抵抗感があったんですね、教科書をちょっと見した瞬間。そんな動機でした。結局、大学時代は、必修でもないのに、4年間もスペイン語と接していました。

社会人になってからは、もっぱら英語です。
独立系映画会社のGAGAに5年間勤めていましたが(『恋のゆくえ』とか『マスク』とか『セブン』とかの時代ですからかなり前のお話です)、海外とのやり取りはすべて英語。カンヌなどの海外の映画祭でももちろん英語でのコミュニケーション。スペイン語も中国語もまったく関係のない世界でした。

ただ、この時代はレンタル・ビデオ最盛期で、GAGAでは『男たちの挽歌』シリーズを始めとする香港映画を多数手掛けていましたし、「東京ファンタスティック映画祭」でも香港映画がとっても元気な時代でしたので、そういった作品には接していました。でも、香港とのビジネスは英語だったわけです。また、香港の場合、当時は100%広東語だったので、まったく未知の世界でありまして。

当時、中華圏映画と言えば香港映画でしたが、台湾や大陸からも作家主義の佳作が出ていました。ホウ・シャオシェンやチェン・カイコーなどなど。

自分がカンヌに参加した年に、チェン・カイコー監督の『さらば、わが愛 覇王別姫』が、『ピアノ・レッスン』とともにパルムドールを受賞、時代の変化を感じました(1990年代は、ウォン・カーワイ監督の香港ヌーヴェルバーグが日本でも大ブレイクしましたしね)。『さらば。。。』は、個人的にも大好きな作品です。友人達に推薦しまくったのを覚えています。

でも、中国語を学習しよう!というところまでは行かなかったですね。転機が訪ずれたのは2002年秋。初の台湾旅行と上海人の友達との出会いです。

キッカケは2002年の秋の台湾旅行、そして上海人の友達との出会い。。。だったのですが、実はその時点で自分は既に30代後半に突入していました。37か38歳。なので、新たに外国語にチャレンジするには遅すぎるのでは?!ましてや中国語だし!と、かなり躊躇はしました。

西暦が2000年になり、世紀も21世紀になり、あれだけ心配していた「ノストラダムスの予言」はいずこに?という感じだったのですが、メディアはこぞって、「21世紀はアジアの時代、中国の時代」なんて書き立てていました。漢文や世界史で勉強していたあの大中国が100年の永い眠りから目覚める!ワクワクしました。世界史の中でも中国史は大好きでしたので。中国って19世紀後半までは世界の最先端だったのに、清朝の後半からボロボロになっちゃって、20世紀になると政治的にも経済的にも没落しちゃってたわけなんですけど、21世紀になると急激に復活を遂げて、100年前の栄華を取り戻すのではないかと思う勢いです。

で、日本も、中国が清朝後期に崩れるまでは、ずっと中国のことを尊敬して来ていろいろなことを学んで来ていたわけでして(遣隋使・遣唐使のころから最先端の知識や物産は中国から)、実際、政府の高官や知識人なんかは漢文が読めたりしてたわけですね。堺や長崎の出島の商人なんかもきっと中国語が出来たんじゃないでしょうか。20世紀の日本は漢文・中国語よりも欧米語偏重だったわけですが、100年の時を経て中国が目覚めるとともに、日本でも中国語学習が盛んになって来て、今や、英語に次いで、2番目に学習者が多い言語に。自分が大学の時代は、フラ語やドイツ語が2番手・3番手で、中国語は4番手ぐらいでしたが、時代は大きく様変わりしました。

。。。何だか歴史の講義みたいになっちゃいました。

ま、こんな時代の流れの中で、自分も中国語をやっておいた方がいいんではないか?と考えていたことは考えていました。。。米国ハリウッドの映画会社で働いていたわけですが。

そんなふうに考えていた時の台湾旅行であり、上海人の友達との出会いだったんです。

2000年になってアジアの時代・中国の時代と騒がれるようになって、中国語の必要性を意識するようになるも、2003年3月になるまでは中国語学習を始めることがなかった私。年齢が37・38にもなると新しい言語を習得するのは無理!と勝手に自分を納得させようとしちゃっていたんでしょうね。それから、漢字ばっかりで難しそう!というアレルギーもありましたし。だって、それまでずっと英語・アルファベットの世界で仕事をしていたわけですから、漢字だらけの中国語って抵抗感があったんですね。

その転機になったのが、友人が誘ってくれた台湾旅行とそのツアーで出遭った上海人の友達(後に半年ほどですが、中国語の発音と聴き取りの指導をしてもらうことに!)です。

そもそも、21世紀になって「中国大陸」のことが騒がれたものの、「台湾」って盲点だったんです。正直あんまり意識していなかったし、イメージがわかなかったですね。ホウ・シャオシェン監督の『非情城市』は好きでしたけど。でも、それってかなり古いし。それから、遅れているのでは?という偏見もありました。

そんな感じだったんですけど、ロクに夏休みも取れなかったその年、秋ぐちになって友達が「今、台湾が面白いんだってよ!世界一のタワーが建設中で。。。意外と進んでいるみたいよ」などと誘ってくれて。しかも、ツアーの値段がとても安かったので参加することにしたんです。で、そのツアーには、(後に中国語の基礎を指導してもらうことになる)上海出身の中国人が参加していました。その人は、お父さんが中国人でお母さんが日本人の中・日のハーフ(なんだか金城武さんみたい?)で、生まれてから大学卒業まで上海で過ごし、その後日本の大学に留学、日本には既に10年ぐらいで、日本語はペラペラ。でも、日本に来た当時はカタコトしかしゃべれなかったそうです。上海では地元テレビ局のアナウンサー試験も受けたことがあるらしく、普通話の発音はプロ級。で、ツアー中にそのような話をいろいろとお聞きしているだけでも感銘を受けたのですが、その方が台湾現地で中国語で現地の台湾人とナチュラルにコミュニケーションされているのを観て、単純にカッコイイな、と思いました。ちょうど、「ベストヒットUSA」の小林克也さんの英語に憧れたように。しかも、この上海人の人、英語もしゃべれてトライリンガルだったので、またまた奮起させられちゃいました。実は中華圏って、英語もペラペラのトライリンガルがウジャウジャいるんですよね。普通話・地元語(広東語、上海語、福建語、台湾語などなど)・英語+α(日本語など)。シンガポールと香港はその最たるもの。台湾も英語がしゃべれる若者が多くなって来ました。今や、バイリンガルの時代ではなく、トライリンガルの時代だぁ!と刺激を受けました。

前にも書きましたが、英語圏で生まれ育った帰国子女に対するコンプレックスって大学卒業後も強く残っていたのですが、そんなバイリン達って、漢字書けないし、東洋や日本の歴史も知らないし、そんな彼女・彼らに差を付けるには中国語かな?ってニワカに思ったりしました。だって、彼らは逆立ちしたってこれから漢字やことわざを覚えて中文を読んだりとか、中国語を話したりというのはムリだと思うし、などと想像し、「よし!トライリンガルを目指そう!」と思いました。

でも、結局、旅行から戻り、職場に戻ると、いつものように忙しい毎日で、中国語の勉強どころではなくなっていました。

そんなこんなで台湾旅行から3ヶ月も経ってしまっていた2003年初旬、会社からアジア・パシフィック部門への異動の話をいただきました。ナントいう運命!アジア・中華圏に強く惹かれ始めていた矢先にです。即答でYES!でした。そして、正式異動日の3月1日から中国語の学習を開始しました。これは自分のその後の人生を左右することになった記念の日です。なので、今でも日付けを覚えています。これからは趣味ではなく、仕事で中国語!東アジアのスタッフとうまくコミュニケーションをして行くには、ハリウッドの会社だからといっても、英語だけでなく中国語でやった方が受け入れてもらえるのではないだろうか?そんな思いもありました。

3月1日から正式に中国語を学習し始めようと決めて、2月に大型書店で中国語学習参考書を漁りに漁りました。

購入したのは、NHKラジオ「中国語」講座のテキスト半年分まとめて(CD教材もまとめて半年分)、それから、中国語発音基礎の参考書を1冊(もちろんCD付き)、中国語単語集を1冊(イラスト付き&CD付き)、そして、中国語文法の参考書を2冊(1冊はマンガ・イラスト付きでとっつきやすくCD付きのもの、もう1冊は文法一覧形式で非常に整理されてて見やすいもの。でも残念ながらCDが付いていませんでした。なので後に、上海人の友達に中国語吹き替えをお願いしました!謝謝老師!)。

選ぶ時の基準は、「見やすく」「わかりやすい」こと!文字数が多くて見にくい参考書も多かったですが、こんな参考書じゃ「楽学」はムリ!続かないと思いました。これらすべては英語学習の時の反省に基づいています。

最初は全部独学でした。

CD教材はすべてMDにコピーして通勤中にも聴けるようにしました。通勤時にMDで中国語の教材を聴くのを毎日の日課にしました。それから、通勤でなくても外出する時には必ず、理解できてもできなくても音楽シャワーの聴き続ける!そう決心しました。

最近新聞広告などで、「毎日聞いているだけで英語がしゃべれるようになった!」というのを見かけますが、それを中国語で実践してみよう~と思ったのでした。

その年のNHKラジオ講座の内容は非常に良かったですね。テキストが見やすく・わかりやすく、それでいてポイントが押さえられていて、スッと頭に入る。初級学習者、特に独学者には理想的な教材でした。

文法の参考書は、イラスト付きのものは本当に導入部だけだったのですが、中国語文法全体を一度に俯瞰するには良い参考書でした。文法の細部・詳細については、リスト式・一覧式の方で多くの例文に触れて行きました。

問題は、発音でした。音関連です。

イラストに描かれているように口や舌の形を作っても、CDに収録されている先生の中国語の音が出ないのです。これは独学では出来ない部分だな、と思いました。

実は、中国語学習の初期の段階で掴んだ「中国語」学習のツボがあります。それは、中国語の学習にあたっては、「目に頼りすぎてはいけない!」ということです。日本人は漢字が読めるので、「目」で読んでわかったつもりになっても、毎日の通勤時にテキストを「耳」で聴いてみると、まったく頭がついて行けていないということを発見しました。例文で使われている単語・漢字は非常に簡単なものです。ですから、「目」で追うと簡単に理解できてしまうのです。でも、それでは意味がないんです、コミュニケーション・ツールとしての「中国語」を目指す自分にとっては。

で、独学で数ヶ月ほどやってみた後、台湾旅行で友達になった上海人に中国語の家庭教師をお願いすることにしました。その人は、他にも数人に中国語を教えているとのことで快諾してくれました。

まずは、発音の基礎を徹底的にやってもらいました。
中国語には、無気音・有気音、四声などなど、日本語にはない発音がいっぱいありますので、変なクセを付ける前に、ネイティブの先生に習った方がいいです。
文法やボキャブラリー・ビルディングや読解なんていうのは自分一人で出来ますが、発音は別です。初期の段階で発音の矯正をした方が良いです。

発音基礎の次にはリスニング&コンプリヘンジョンをお願いしました。
でも、先生が選んでくれた参考書が中級者用のものだったんです。
ちっとも聴き取れずに凹みました。そこで、先生に提案し、自分でリスニングの教材をいくつかこなしてから再度先生に家庭教師をお願いしたいと。

で、最後のお願いとして、例のCD教材が付いていなかった文法の参考書を、先生の吹替えで、中国語と日本語で吹き込んで欲しいとお願いしました。これが非常に良かったんです!このお陰で中国語検定対策の文法基礎は楽々と身に付けることが出来ました。

家庭教師をいったん終了した後、その年、2003年秋だったと思いますが、初めて中国語検定に挑戦してみました。やはり独学ですと、自分のレベルがどのくらいなのか?自分の勉強方法は間違っていないか?などいろいろと悩みます。で、まずは4級を受けてみることにしました。3月に中国語を始めてから半年ほど学習して来たことを復習するとともに、試験直前の1ヶ月間は過去問を集中的にこなして実戦モードに切り替えました。結果、4級はそれほど難しくはなかったです。一発で合格しました。

2004年の春には3級にチャレンジ。でも、その時は落ちました。「耳」も「目」も引っ掛かりました。筆記の方が悪かったと記憶しています。文法の間違い探し、書き取りが足を引っ張りました(前にも言いましたが、自分は大陸の漢字も台湾の漢字も書けないんです。日本の漢字しか出来ません。自分としては会話を重視しているので、書き取りにはまったく力を入れていなくて、作文問題はほぼあきらめているんです)。長文も読むのが遅かったと思います。聴き取りも短文はまあまあでしたが、長文がダメでした。

反省すべきは反省し、弱い部分を強化して、その年の秋には合格。中国語を始めて2年弱で3級まで行けたから順調かな~なんて楽勝気分でいました。ところが、そこからが大変なんです!中国語っていうのは。「さまよえる中級者」とはよく言ったものです。3級までは中国語の初級ですが、そこから2級(当時は準2級)レベルに行くのが非常に大変なんですね。学習されている方はご存知だと思いますが。3級合格後、3ヶ月ごとに2級(準2級)にチャレンジしましたが、何度も落ちました。2級(準2級)に合格したのは2006年の3月です。中国語の学習を始めてからちょうど3年が経っていました。

では、3級合格後、「さまよえる中級者」としてどうやって学習して行ったか?
~それが「台湾ドラマ・中国語版の韓国ドラマを観まくる」でした。

実は、中国語って、中検4級・3級などの初級レベルの参考書はいっぱいあるんですけど、中級者レベルの教科書って極端に数が少ないんですね。あったとしても内容が極端に上級すぎ!みたいな。だから、中級者は「さまよう」んです。この段階でフツーは中華圏への留学を考える人が多いというのは頷けます。大陸に行けば北京外語学院なんかが出している中級者用の教科書が豊富にありますからね。

でも、自分は留学になんて行っている時間はないし、独学での方法を追求して行きました。一つが、例の上海人の先生が教材として選んでくれた中級者用の参考書、そして、韓国・台湾ドラマVCD/DVDの鑑賞です。

ところで、自分って「韓流ドラマ」は中国語版でしか観たことがないんです。
2003年3月にアジア・パシフィック部門に異動になった数ヶ月後に北京での全体会議がありましたが、その時に王府井の大書店で韓国ドラマ『秋の童話』のVCDを見つけて買いました。韓流ドラマってのが流行り始めているというのは知っていましたが、観たことがなかったので、中国語の勉強のためにもと思って買ったのでした。しかも、全話が入ったボックス・セットなのに非常に値段が安かったので。

『秋の童話』は日本で山口百恵と三浦友和が昭和50年代にやっていた「赤いシリーズ」が詩的に再現されいて、それが日本人の自分には新鮮に見え、しかも主演男優のソン・スンホン&ウォンビンがカッコイイし、主演女優のソン・ヘギョがカワイイとあって、一気に観てしまいました。中国語吹替えと中国語字幕でしたので、当時の中国語能力では歯が立ちませんでしたが、「たぶんこんなことを言っているんだろうな」と多分に内容を想像しながらの鑑賞でした。

その後、台湾に行った折には『冬のソナタ』や『夏の香り』など韓流ドラマの代表作の中国語版を次々と買っては観まくって行きました(『冬のソナタ』は、NHKの地上波でやっていた日本語吹替え版を観たことがありますが、中国語版と声質がまったく違っていて、イメージが崩れてしまいました。笑)

そのうち、台湾ドラマにも手を出して行きました。その第一弾が、「キッカケは『愛情白皮書~あすなろ白書』」でした。その後、『流星花園』、『アウトサイダー』、『カエルになった王子様』と、話題作を次々に観まくりました。

ドラマを観る中で、韓国や台湾の文化を垣間見ることができ、「意外と進んでいるジャン」と思うことがいっぱいありました。今まで欧米のことばかりしか見ていなかった自分が、お隣のアジアの国々に新しい発見をして行ったのです。正に「灯台下暗し」でした。自分が知らないうちに、韓国も台湾もこんなにも豊かに発展していたんだな~、と(高飛車発言でスミマセン。。。)。

そんな感じでドラマ鑑賞の数をこなすうちに、中国語吹替えのスピードと同じ速さで中国語字幕が読めるようになり、ドラマの内容も理解できるようになって行きました。

慣れとは恐ろしいものですネ。「語学は習うより慣れろ」とはよく言ったものです。エンタメ性のあるドラマでナチュラル・スピードで中国語に慣れていく!それがポイントです。日本にいる外国人で日本語が上手な人によく出会いますが、「どこで習ったの?」と聞くと、「日本のドラマで」と答えて来る外国人が結構います。それって本当なんですね。自分も英語学習の時に、中級レベル以降は映画やドラマを教材にして勉強していましたらかね。

このドラマ学習の中で極めつけだったのが、韓流ドラマ『チャングムの誓い』でした。

歴史ものでコトバがお固く、普段使われない宮廷用語が結構出てくるし、人の名前・食材・薬など難しい固有名詞がいっぱい出てくるし、しかも60話近くあるので難易度S!でした。そんじょそこらのラブ・コメとはレベルが段違いでした。1回観ただけでは表面的なストーリーしか追えなかったので、かれこれ5回ぐらい観ています。60話近くをです!それだけ面白いストーリーでしたので。見るたびに発見がありました。「あー、そういうことだったのか」と。

さて、例の上海人の先生ですが、その後、ニュージーランドに英語語学留学に行かれてしまったので、家庭教師再開は見送りになり、結局独学の日々が続くのでありました。。。今日に至る。

。。。。気づいてみれば、もうこんな時間!結構書いてしまいました。。。文字数制限が何度も出ましたし。このあたりで、このシリーズ、終わりにしようと思います。明日から通常営業ですしね。

自分としては、中国語学習は、今後は中検準1級・1級は狙わず、HSKでレベル・チェックを続けていこうと思います。中検は今後は書き取り問題が多くなって来ますが、HSKであれば作文問題は漢字1文字の穴埋めで済みますので(笑)。

自分が書いてみた文章を読み返してみて、大事なことを説明するのを忘れてしまっているのに気がつきました。

「口」即ち、「しゃべる」「話す」力を磨く方法についてです。
実は、ドラマのVCD/DVDを使った楽習方法というのは、「目」と「耳」は鍛えられるのですが、そのまま観てるだけでは、しゃべれるようになるわけではありません。

「シャドーイング」というメソッドを使って「口」を動かす・鍛えるということをしないと、「しゃべれる」というレベルには行きません。

「シャドーイング」は、「耳」リスニングで入ってきた音・単語・文章をそのまま自分の「口」で再生するというメソッドで、「耳」と「口」と「右脳」を鍛えるのに有効です。英語教育の方面では、昔は通訳者養成クラスでしか使われていなかったメソッドで、自分が学生の時には導入されていなかったものですが、今では一般の英語クラスでも使われるようになっています。もし、この方法を知っていたのなら、自分の英語も、もっと早くに開眼していたことであろうに!

「シャドーイング」はCD教材さえあれば一人でもできるお気軽メソッドです。自宅でも通勤途中でも、「耳」から入ってくる情報を、念仏のように唱えるだけです(自分の「口」で再生)。

あとオススメなのは、お気に入りのC-POP音楽のカラオケを中国語で歌うこと!
しかも、大きな声で!口の筋肉を動かす運動になります。
大声を出せばストレス発散にもなりますしね。

でも、独学でできるのはここまでだと思います。

後は、中国語ネイティブの友達を作っていっぱいしゃべることです。
会話は、1対1、1対多のコミュニケーションが基本です。
やはりナマの人間と話すのが一番。
最近ではインターネットのMSNにビデオカメラを付ければ、海の向こうの台湾・中国の友達とも顔を見ながら気軽に話をすることができます。しかも、無料で。

DVDといい、MSNといい、語学学習者にとっては本当に良い時代になりました。
こういった最先端の技術力を使わない手はありません。どんどん積極的に使いましょう。

自分も現代技術と最新の語学学習メソッドのお陰様で非常に効率的に中国語を習得できていると思います。中学で3年、高校で3年、大学で4年も勉強しても話せなかった英語でしたが、中国語の場合はたったの3年で会話ができるようになりました。

やればできる!あきらめないで継続してやることが大切ですね。でも、あくまで「楽しく学ぶ」というスタンスを忘れずに続けたいと思います。

キッカケは横浜?

本ページは姉妹ブログ「アジア! 華流! 台流! C-POP!」からの引用です(http://asien.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_e9d3.html)。

明けましておめでとうございますPart IIです。

今自分は、実家の靜岡に来ています。サッカー王国清水です。長谷川健太さんやさくらももこさんと同じく清水の出身です。学年も一緒です。現U-22サッカー日本代表の反町さんは一つ上のご先輩で昔からご近所の星でした。

本日は快晴、雲ひとつなく、そして、富士山がキレイに見えます。

さて、里帰りを機に、自分と中華圏の接点のルーツをちょっと考えてみました。

清水には結局、小学校の6年生までしかいなかったんですけど、小学校5・6年生の時は、『燃えよドラゴン』『ドラゴンへの道』でブルース・リーが流行り始めた頃だったでしょうか。おそらく、これが原点?

中学校からは横浜に転校したんですが、中学~高校の時期は、『死亡遊戯』で再びブルース・リーが、そして、後継として『酔拳』シリーズでジャッキー・チェン、『少林寺』でリー・リンチエ、が流行りました。

でも実は、これらカンフーものは、どちらかと言うと、2つ年下の弟がハマっていて、彼がよく物まねをやっていたのを覚えています。自分はそこまでドハマリではなかったですが、当時は相当流行っていたので、かなり影響は受けています。ワーナー在籍中には、ジャッキー・チェンの『酔拳2』『ファイナル・プロジェクト』『レッド・ブロンクス』『デッドヒート』の日本版DVDのリリースも手掛けたのですが、思い出に浸りながら楽しく仕事をしたのを覚えています。ハリウッドのワーナー本社にかけ合って(もちろん英語でです)、権利クリアランスとマスター出しをやってもらったり、他社から既に発売されていた日本版DVDを特典ディスクとして付けたりと、かなり情熱的にやりましたね~。エンタメ業界って、情熱が大切なんですヨ。

でも、自分に本当の影響を与えたのは、たぶん高校時代ではないかな~と思います。高校は、横浜の山手の丘の上の公立高校でしたが、歩いても行ける距離で「中華街」がありましたし、クラスメートには中華系の生徒もいました。それが、ナマで接した中華でした。映画の中の中華ではなく、本物の生きた中華です。

きっとこれが自分の原体験なのだと思います。それが、何十年後に華流業界に入るなんて!人生は、経験・体験の積み重ね。それらが一つの線となって繋がって来る日が来るものなのですね。面白いものです。

キッカケは『愛情白皮書~あすなろ白書』

本ページは姉妹ブログ「アジア! 華流! 台流! C-POP!」からの引用です(http://asien.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_9278.html)。

昨日は、自分が華流業界に入るキッカケとなったエピソードをお話しましたが、本日は、華流ドラマを観ることになったキッカケについて少々お話しようと思います(少々と言いつつも、結局いつものように長くなると思いますが。。。笑)

フツー、皆さん、『流星花園~花より男子』なんですよね?華流ドラマとの出会いというのは。

自分の場合は、『愛情白皮書~あすなろ白書』から入りました。

その経緯をお話しましょう。

ワーナーのアジア・パシフィック部門では、自分は、香港のマーケットも見ておりましが、香港チームは早くから台湾ドラマのマーケット性に目を付けていて、『流星花園』『愛情白皮書』『山田太郎物語』『求婚事務所』などの台湾ドラマ作品の買付けをしてはVOD/DVDの販売をしていました。で、確か、2002年か、2003年だったかと思いますが、その年の売上げのナント25%を『流星花園』が占めちゃったんです。ワーナー内では大変なニュースでした。それで自分も思いました、これからは台湾かなって。

で、香港出張の際に、その台湾ドラマのサンプルVCD『流星花園』と『愛情白皮書』を送ってもらったんですね、勉強のために。

最初に観てみようと思ったのは『愛情白皮書』の方でした。なぜならば、香港オフィスに貼ってあった宣伝用ポスターが、『愛情~』の方が見栄えが良かったので。『流星花園』は、F4の4人が小さく背中を向けて左下に座っていて『流星花園』の文字がデカデカと出ているポスターだったので、イメージがあまりわかなかったんです。一方、『愛情~』の方は、出演者全員の顔がアップになっていたこと、そして当時は知らなかったショーン・ユーがなんとなく光るものがあったからというのと、やはり副題で書かれていた「あすなろ白書」(日本語)は、例のフジテレビ版のドラマを観ていましたし、柴門ふみさんのコミックの方も読んでいたので、親しみがあったからでした。

いや~、出来が良かったので驚きましたよ。映像が詩的で、音楽も良かった。当時は中国語のリスニングは大してできなかったので、中国語字幕を追いつつ映像と音楽を楽しむといった感じだったので、セリフ回しが下手だとかいうのは全く気にしていなかったんですね、自分的には。でも、台湾オフィスのスタッフに聞いてみたら、出演者がほぼ新人でセリフもボソボソ言っていて(特に、ショーン・ユーはこれがデビューで、しかも、元々香港出身なので、国語セリフに慣れていなかったんでしょうね~)、イライラするとか言っていたので、まあナント手厳しいことを言うんでしょうね、と思っていましたが、数年経って観返してみると、確かにボソボソ何言っているの?という感じだし、しかも、主人公の掛居が優柔不断な男でどっちの女性に付くのか余計イライラさせちゃったんでしょうね。日本ではとってもウケたドラマ&コミックだったんですけど、中華圏ではストーリー自体があまり馴染めなかったのかもしれませんね。でも、日本人の自分にとっては、とても良く出来ていると思えたし、その後に日本版DVDも観てみましたが、やはり台湾版の印象の方が良いです。

で、出演人もそれぞれに魅力を感じました。
ショーン・ユーはその後は香港に戻って香港映画にはなくてはならない存在になりましたし、レイニー・ヤンも台湾アイドル・ドラマの常連として成長、『愛情~』の中で英語の発音がネイティブだなと関心していたエディ・ポンも映画にドラマに活躍中だし、それから、『愛情~』で才女を演じ&主題曲も歌っていたファン・ファンはその後CDデビューでブレイクし、今や「模範棒棒堂」のMCを務めるなど大活躍。しかも、彼女はハーバード大出身というから驚きました。台湾は学歴社会なので、タレントであっても高学歴でないと生き残れないみたいですね。。。厳しい!

などと書いていたら、やっぱり長くなっていました(笑)。

最後にちょっとだけ『流星花園』のことについて触れますと、実は、香港チームから送ってもらったVCDサンプルはしばらくの間、放置しちゃっていたんです。何でしょうか、食わず嫌いと言うのでしょうか?自分としては、原作のコミックを読んでいなかったし、VCDのパッケージ・デザインにもそそられることがなかったので、放って置いちゃったんですね。でも、しばらくするうちに(2004年ごろ?)、ブログなどで『流星花園』はスゴイ!とか、華流ムック本がコゾッて『流星花園』特集を組み出したので、「エ、そんなに面白いんだ!?」と奮起して、観始めたんです。そしたら、面白いこと面白いこと。もっと早く観ておけば良かったと後悔しました。まあ、でも、DVDなどのパッケージ・ビジネスはパッケージ・デザインが非常に大事なんですよね。もっとイメージがわくデザインだったらもっと早く観ていたのに、と思いました。

という感じです。その後、『流星花園』も何回か観ていますよ。テレビドラマは中国語学習にとって、とても良い教材ですからね。映画よりもセリフが多いですし、日常的な会話が豊富に収録されていますので。自分が台湾ドラマを観る動機の大部分は中国語の学習と、台湾の若者文化の情報収集に向けられていますが、やはりドラマ自体が面白くないと続かないので、話題性のあるものを選ぶようにしています。中国語を勉強するには台湾ドラマ!そんな鑑賞方法は大いにアリだと思っています。

東アジア統合の時代、中国語はとても大事な言語になって来ます。男性諸君、中国語を学ぶのであれば、台湾ドラマをたくさん観ることですゾ。要は、英語と同じです。

では、今日はここらへんで。

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